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可哀想だた。

 時には、自分を「かわいそうだ」と思う感性も必要なのではないか、と思う。
 
 ここで言うのは「頭のかわいそうな人」などという文脈で使われる、若干揶揄の印象を込めた「かわいそう」ではない。もっと純粋に、言うなればただ単純に同情し、いたわる物差しとしての「かわいそう」のことだ。
 
 
 自分が苦しい目に遭っていることは、多くの場合自分のほうにも原因がある。ミスや勘違いの中に、努力の不足や考え方の誤りが含まれていることもある。
 けれども今遭っている苦しい目は、因果応報、やってしまったからこそ受けているはずの苦しみからは、ちょっと足が出ていないだろうか。
 割に合わない、なんのいわれもない同情すべき酷い目に遭っている、という分があるかもしれない。
 
 何か起きたときに、自分は悪くない、何々(誰々)のせいだと責任転嫁をしようと言っているわけではない。むしろ、そういうことの多くは何のせいでもなくて、誰のせいでもないのだ。
 でも、だからといって自分「だけ」が注意が足りなかった、もっと努力をすればよかったと思ってしまえば、心の弾力がすり切れてしまう。
 
 
 OK、私はかわいそうだ。
 
……それなら、次同じ状況に陥ったとしても、適切な頑張りをするだけで今は予想も付かないような「いい目に遭えて」いるかもしれないではないか。
 
 
「可哀想だた惚れたてことよ」

 この有名らしい文句を、私は新井素子(確か緑幻想)で読んだ限りなのだが、ほんとに「かわいそう」が愛をあらわす心の動きなら、時には自分を愛してみることも必要なのかもしれない、とか言い換えてみてもいいかもしれない。

テーマ : ひとりごと - ジャンル : 心と身体

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